栄西とは
1192年源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開いた頃の中国は宋の時代(960-1279)。その宋で仏教を学んだ僧が続々と帰国し、日本に新しい文化をもたらしました。
日本における臨済宗の開祖である栄西も宋で学んだ一人であり、日本において茶の普及と奨励に勤め、日本の茶祖としても親しまれています。また栄西は、建仁2年(1202)京都最古の禅寺であり、臨済宗建仁寺派の大本山「建仁寺」を開いたことでも知られています。
在宋中、栄西は求道修行のかたわら茶の効用と作法を研究、1191年に宋より帰国する際、茶種を持ち帰り栽培、さらには茶の知識や効能を集約した茶の専門書「喫茶養生記」を著すなど茶の普及に大きな足跡を残しています。
鎌倉時代以前にも、一部の貴族・僧侶の上流社会の間で喫茶は嗜まれていましたが、広く一般社会にまで拡大されたという意味で、日本の喫茶文化は実質的に鎌倉時代の栄西以後に発展することになります。これが栄西が日本の茶祖と言われる所以となっています。
日本初の茶栽培と宇治茶の始まり
1191年宋より帰国した栄西は、佐賀県と福岡県の県境に連なる脊振山に茶の種を蒔いており、これが日本で最初の茶の栽培と言われています。
また栄西は、栂尾の明恵上人にも茶種を贈っています。これが「栂尾茶」の始まりと言われており、のちに、それに由来するという茶が日本における最も由緒正しい茶とされ、「本茶」と呼ばれ、それ以外のお茶を非茶として区別されるようになりました。
その後、明恵上人は宇治にも茶を広めて量産を図り、『馬に乗って畑に入ってその蹄の形に茶の種子を播くように指導した』という伝説も残っており、宇治の茶はこの栂尾から移されたものと言われています。
室町初期以降は栂尾が荒廃したため、「本茶」=宇治茶をさすようになっていきました。以後、宇治は天下の茶産地として発展していくことになります。
明恵上人は、さらに京都のほか、奈良、三重、静岡などにも茶を移植し、全国的に茶の栽培が盛んになっていきます。
栄西がもたらした抹茶法
栄西が日本にもたらした喫茶は、当時宋で流行していたいわゆる『抹茶法』で、茶葉を道具で碾いて粉状にし、それをお湯に入れて飲むという現在の抹茶のルーツとなるものです。
鎌倉時代に導入されて以降、この抹茶法は本家の中国では消滅してしまったのに対して、日本では独自の発展を遂げて16世紀の頃、千利体の手によって洗練され、今日に至っています。
栽培法においても工夫が加えらるようになり、茶樹の周りに木組みを作り葦簾などを広げて日光を遮る、「覆い下茶園」という環境で栽培されるようになります。
三代将軍家光の時代には、宇治から江戸まで抹茶の元となる碾茶を運ぶ、お茶壺道中が定例化されていきました。